本をめぐる冒険

読んだ本の感想などを書いてみるブログ。

『羅生門』紹介

 明けましておめでとうございます。

 一年の計は元旦にあり、と言います。今年が良い年になるよう、お正月から良いスタートを切りたいですよね。小説においても初めの一文は重要で、良い書き出しはいきなりその世界観へと引き込んでくれます。

 というわけで、新年一発目のテーマは『書き出し』です。

 さて、今回は芥川龍之介さんの『羅生門』を紹介します。

 

 

〇書き出し

 ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

 広い門の下には、この男の他に誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。

 

〇感想

 国語の教科書でもおなじみの『羅生門』は、時間帯を描写する短い一文から始まっています。名作の最初の一文は意外にもシンプルなものが多いですが、本作はその中でも飛びぬけてシンプルな一文です。この後に荒れ果てた都の説明がやや続くので、最初はあえて簡潔にしたのかもしれません。下人は不気味な夕暮れの羅生門にたどり着いたものの、かといって盗人になる勇気も持てずにいました。死人の髪の毛を抜いていた老婆とのやり取りの後、下人は老婆の服を剝ぎ取って逃げていきます。舞台設定も結末もかなり暗い感じを受けます。よく考えると、教科書にしては珍しく道徳的とは言えない結末です。結びの「下人の行方は、誰も知らない。」も、同じくシンプルな一文ですね。実は初出の時点では「下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。」となっていたそうです。個人的にはやはり現行のバージョンの方が、想像の余地を残している感じがあって余韻がある気がします。

 本作の舞台である羅門は、歴史上実在した羅門をモデルにしています。794年に都となった平安京でしたが、南東部は途中から荒廃したまま放置されていたと言われています。平安時代は貴族による華やかなイメージがある一方で、重税により多くの庶民が困窮していました。格差社会という言葉は最近よく使われていますが、貧富の差自体は1000年以上前から存在していたみたいですね。貧困から追い詰められて犯罪に走るのは、どの時代にも共通かもしれません。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

『鼻』紹介

 明けましておめでとうございます。

 一年の計は元旦にあり、と言います。今年が良い年になるよう、お正月から良いスタートを切りたいですよね。小説においても初めの一文は重要で、良い書き出しはいきなりその世界観へと引き込んでくれます。

 というわけで、新年一発目のテーマは『書き出し』です。

 さて、今回は芥川龍之介さんの『』を紹介します。

 

 

〇書き出し

 禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下がっている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰めのような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下がっているのである。

 

〇感想

 『鼻』は、タイトル通りにいきなり鼻の話から始まっています。ストレートに本題から入っていけるのは、コンパクトな短編ならではですね。池の尾とは、現在の京都府宇治市にある地名のことです。その後すぐに内供の鼻の描写が続きます。1寸は約3cmなので、15㎝~18㎝くらいの鼻だったことになります。それだけの長さであれば、内供がコンプレックスに感じるのも無理はないように思います。内供は鼻を小さくするためにお湯で茹でて踏ませようとします。施術は無事成功し、内供の鼻は普通の長さになりますが、内供はまだ周囲に笑われているように感じてしまいます。

 ありえない設定は作られた昔話のようにも感じますが、自分の体にコンプレックスがあってどうにかしようとするのは、実は現代人にもよくあることですね。極端なダイエットや整形は、内供と同じように他人の目を気にする自尊心から来ています。身体的な問題というより劣等感を感じる心の問題だというのは、芥川の鋭い分析力を感じました。

 この話の元ネタは『古今和歌集』や『宇治拾遺物語』だそうで、容姿に対するコンプレックスの悩みは平安時代にもあったことが窺えます。そう考えると、人間の悩みはいつの時代もそれほど変わらないのかもしれませんね。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

『蜘蛛の糸』紹介

 明けましておめでとうございます。

 一年の計は元旦にあり、と言います。今年が良い年になるよう、お正月から良いスタートを切りたいですよね。小説においても初めの一文は重要で、良い書き出しはいきなりその世界観へと引き込んでくれます。

 というわけで、新年一発目のテーマは『書き出し』です。

 さて、今回は芥川龍之介さんの『蜘蛛の糸』を紹介します。

 

 

〇書き出し

 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

 

〇感想

 『蜘蛛の糸』は、昔話のナレーションのような語り掛けで始まっています。丁寧な言葉遣いからは、登場人物たちよりも一段上の、いわゆる神の視点から眺めていることがわかります。最初は不思議で美しい極楽の様子が描写されます。極楽にも朝があって蜘蛛がいることが分かります。御釈迦様は蓮池を通して地獄を見ていました。それから、かつて蜘蛛を殺さなかった犍陀多のために、蜘蛛の糸を垂らしました。地獄は極楽とは正反対に暗く不気味な様子です。犍陀多は上から伸びてきた蜘蛛の糸を登り始めます。犍陀多が後から登ってきた罪人たちを罵倒すると、蜘蛛の糸は切れてしまいました。御釈迦様は悲しげな顔でどこかに行ってしまいます。地獄で何が起こっていようと、極楽は一向に変わらず、時間だけは昼になっていました。もし犍陀多が罵倒しなかったら、彼は極楽に行けたのか。その場合後から登ってきた者たちも行けたのか。非常に短い話ですが、だからこそいろいろと想像できる余地がある気がします。

 本文によると、地獄と極楽の間は何万里と離れています。1万里は約3.9万㎞で、地球一周分に相当します。そこまで伸びる長さと言い、人が何人もぶら下がっても切れない強さと言い、極楽の蜘蛛の生態は不思議です。こちらのページによると、ある種のクモの糸は鉄や高強度合成繊維に匹敵する強さを持っているそうです。それに、半日間も糸を持って観察し続ける御釈迦様も、すごい握力と我慢強さですね。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

『檸檬』紹介

 明けましておめでとうございます。

 一年の計は元旦にあり、と言います。今年が良い年になるよう、お正月から良いスタートを切りたいですよね。小説においても初めの一文は重要で、良い書き出しはいきなりその世界観へと引き込んでくれます。

 というわけで、新年一発目のテーマは『書き出し』です。

 さて、今回は梶井基次郎さんの『檸檬』を紹介します。

 

 

〇書き出し

 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦燥と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。

 

〇感想

 梶井基次郎の『檸檬』は、不気味な心理描写から始まります。「えたいの知れない~」の一文は、その内容に反して、声に出して読んでみると妙にリズムが良いです。語り手は、正体の分からない「何か」に抑圧されているようです。続く文章では、二日酔いに喩えられています。二日酔いの何とも言えないダルさは、誰にでも共感しやすい例と言えます。その後も、以前美しいと感じたものに気持ちが付いてこなくなったと書かれています。抽象的でリズムのいい一文で読者をひきつけた後、具体的に説明を加えていくという造りになっています。

 そして終盤に登場するのが、タイトルにもなっている檸檬です。八百屋で見つけた色鮮やかな檸檬に惹かれ、色や形、冷たさ、匂いなどを味わいます。そして丸善の本棚に檸檬を置いて外に出て、それが爆発するという妄想をして終わります。かなり印象的なシーンで、今でも京都の丸善にはレモンを置いて帰る人がいるそうです。

 レモンは寒さに弱いため、冬は温暖で夏は乾燥している地中海性気候の地域が栽培に適しています。イタリアのシチリア島南カリフォルニア、日本では瀬戸内海が主な産地となっています。ちなみに作中に登場するレモンは、カリフォルニア産と描写されています。こちらのページによると、2019年のレモンの輸入量はアメリカが半分を占めているそうです。現在はレモンがエッセンシャルオイルとして利用されることもあり、レモンの匂いには本作と同じように憂鬱を吹き飛ばすリラックス効果があるようですね。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

『坊ちゃん』紹介

 明けましておめでとうございます。

 一年の計は元旦にあり、と言います。今年が良い年になるよう、お正月から良いスタートを切りたいですよね。小説においても初めの一文は重要で、良い書き出しはいきなりその世界観へと引き込んでくれます。

 というわけで、新年一発目のテーマは『書き出し』です。

 さて、今回は夏目漱石さんの『坊ちゃん』を紹介します。

 

 

〇書き出し

 親譲りの無鉄砲で小供のときから損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰ってきた時、おやじが大きな眼をして二階から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。

 

〇感想

 『坊ちゃん』は、主人公の性格を簡潔に述べたリズムのいい一文です。声に出すとテンポが良く、妙に記憶に残るインパクトがあります。この後に子供時代の具体例が挙げられていく構成となっています。上に引用したエピソードも、小噺風で洒落が利いています。いたずらばかりしていた主人公は父にも母にも期待されませんでしたが、下女の清には「坊ちゃん坊ちゃん」と可愛がられて育ちます。「親譲りの無鉄砲」な坊ちゃんは中学教師となり、四国で教師や生徒たちとぶつかり合います。教師たちにあだ名を付けたり、生意気な生徒たちとやり合ったり、恋愛沙汰から天誅を加えたりと、本人はいたって真剣なのにどこか楽しそうにも見えます。この辺のユーモアが、漱石作品の中でも最も強いのが本作だと思います。また暴力に訴える場面もあるのですが、坊ちゃんのからっとした江戸っ子気質のためか、気楽にあっさりと読めます。最後に清と一緒に暮らせるようになったのも微笑ましい終わり方です。

 本文では、四国の中学教師の月給は「四十円」だったと書かれています。今の高校教員の初任給が20万円くらいだそうなので、当時の1円は今の5千円くらいの価値があったようです(正確には、当時と今とで教員という仕事の価値が違っていますが)。別の個所では「九円じゃ東京までは帰れない」とありますが、さっきの理屈に従うと、9円は現在の価値で4万5千円になります。松山ー東京間が5万円近くかかったのは、当時の交通事情を考えると当然の気もします。古い作品をそういう観点で読んでみても面白いかもしれませんね。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

『こころ』紹介

 明けましておめでとうございます。

 一年の計は元旦にあり、と言います。今年が良い年になるよう、お正月から良いスタートを切りたいですよね。小説においても初めの一文は重要で、良い書き出しはいきなりその世界観へと引き込んでくれます。

 というわけで、新年一発目のテーマは『書き出し』です。

 さて、今回は夏目漱石さんの『こころ』を紹介します。

 

 

〇書き出し

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だから此所でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚る遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起こすごとに、すぐ「先生」と云いたくなる。筆を執っても心持は同じことである。余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない。

 

〇感想

 漱石文学の中で最も有名な『こころ』の書き出しは、非常にシンプルな一文です。この一文を読むだけで、これから「先生」についての話が書かれるのだなと察することができます。また、「呼んでいた」と過去形が使われていることも、その後の伏線となっています。回りくどくて抽象的な始まり方ですが、その後の文章で先生について説明していくことで、読者の頭の中にも先生が出来上がっていきます。今回久々に読み返してみると、先生は最初から明らかに過去を隠している思わせぶりな態度で、なるほどと思うことが多かったです。『吾輩は猫である』は流石に古さを感じましたが、本作は今読んでも洗練された無駄のない文章だと感じました。

 今回気になったのは、最初の段落の末尾にある「余所々々しい頭文字などはとても使う気にならない。」の部分です。「先生と遺書」では、先生が残した長い手紙を読むことになるのですが、そこでは先生は友人を「K」という頭文字で記しています。裏を返せば、先生はKに対して「遠慮」や「余所々々しい」気持ちを持っていたと考えられます。Kは思いを寄せていた御嬢さんを先生に取られ、自殺してしまいます。その罪悪感が今も先生を苦しめていました。そうした伏線が冒頭からさりげなく語られていたことに、今回初めて気が付きました。何回読んでも新しい発見があるのが古典の面白さですね。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

『吾輩は猫である』紹介

 明けましておめでとうございます。

 一年の計は元旦にあり、と言います。今年が良い年になるよう、お正月から良いスタートを切りたいですよね。小説においても初めの一文は重要で、良い書き出しはいきなりその世界観へと引き込んでくれます。

 というわけで、新年一発目のテーマは『書き出し』です。

 さて、今回は夏目漱石さんの『吾輩は猫である』を紹介します。

 

 

〇書き出し

 吾輩は猫である名前はまだ無い。

 どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャーと泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。

 

〇感想

 『吾輩は猫である』の書き出しは、そのままずばり「吾輩は猫である。」です。本作を読んだことのない人でも、だいたい知っているくらい有名な書き出しですね。本作の語り手は、猫です。しかも、一人称が「吾輩」で、気位の高さも感じます。この一文目の時点で、すでにインパクトと面白さを感じます。苦沙弥先生に飼われることになった吾輩は、人間を観察したり、いろいろなことを考察したりします。小難しいことを語ったかと思えば、急に猫視点に戻ったりと緩急の付け方がうまいです。にゃーにゃーかわいらしく鳴いている猫が、内心でこんなことを考えていると思うと面白いですね。現代でもいろんなものが擬人化されていますが、八百万の神と言うように、日本人は昔から動物や物にも魂が宿ると考えるのが好きなのかもしれません。

 吾輩のモデルは、漱石が飼っていた猫だそうです。猫が死んだときは知人に死亡通知を出したくらい、漱石は猫好きだったようです。確かに人間を観察していたり、どこか突き放したような感じは、人懐っこい犬よりも取り澄ました猫の方が合っている気がしますね。

 ここまで読んでくださってありがとうございました。